2016.01.31

2月に思う。

明日から2月です。

この「〇月に思う」コラム
たぶん昨年の8月か9月に始めたと思うので
今年の夏まで書いて一年通してみようと思っています。

そんなわけで2月

2月というと
「2」という数字と
「水瓶座」(魚座の初期の方ごめんなさい)
そして時間数字でいう「11」をイメージする。

2は
とても直感的で未知数
可能性はあるけれど
それが何なのかつかめない。
でも人や物事と関わる中で見えてくる
まるで少年少女のような
そんな時を連想してしまう

そうして11
11も
足すと2になるのだけれど
この11
私はタロットの「力」を連想するのである
(マルセイユ版の場合11が「力」。)

今まである流れや習慣や常識
そうしたオートマチックなものを覆す
「力」

ローカルな場である10の数字
その一つの場の中で成立するものに
とらわれず
相対化してしまうような
そんな力をもった
10の次の11の数字。

そうした「2」「11」の
二つの数字のイメージ

私の中で
そのまま
水瓶座のイメージにも重なって思えるのだ

水瓶座は
変わり者とか
エキセントリックとか言われることが多いが

この
未知数の
少年少女のような
純粋なみずみずしさと

目の前の常識に縛られない
力を

感じずにはいられない。

でも

でもね・・・。

水瓶座というのは
もしかして
誰よりも
常識的なのかもしれないと
私は思う。

そもそも
常識とは何だろう。

不倫はいけないと
言われているけれど
海外へ行けば
一夫多妻の国もある。

時間は守らなければいけないというけれど
そもそも一時間ぐらいの遅刻は当たり前という国もあるだろう

常識というものは
その国
その会社
その家族
その・・・

大きさ様々であれ
そのサークル範囲の言葉なのだ

そうした
ものに縛られず
出来るだけ
何処にでも通用するような
そんな考えやスタイル
ありようをかもすのが
水瓶座の人たちだ

だからこそ
かれらは誰よりも常識的であり(と本人は思っている?!かも)
誰よりもこの「場」で浮いているように見えるのである。

でもだからこそ
水瓶座は
色んな人色んな考えを
そのままに尊重して成りたちあえる
博愛を秘めた星でもある

・・・なんて
水瓶座の話になってしまいました。

そう

日本は
水瓶座の国ですね。

私は
この日本という国は

色んな考え
色んな人
がいるこの世界を
つなぐ
或いは
尊重して助け合う

そんな架け橋となる才能を秘めた
国だと思います。

だって水瓶座の国だもの。

そんな2月

2016.01.06

よせてはかえす        (日々のつれづれ)

行い、

「全ての行いに報いがある」・・・かぁ。

今日「加藤俊朗」さんの呼吸の本を読んでいた。
読んだ本の中でこの言葉が
目に留まる。

「全て」・・・なんだなぁ・・。

こうしてブログを書く、

このあと布団に入って寝る。

息を吸う。吐く。

…もかな?…そうなんだなぁ。

ふと
随分昔のことだけれど、中学生の時だろうか
北村想の「想稿 銀河鉄道の夜」という芝居を見て感動した事を思い出した。

そこに
理科の先生が出てくる
その理科の先生は
あとから「ジョンペレルン博士」として
尼さんみたいな恰好で

本当の幸いについて
カンパネルラと話したような・・・

その中で

「よい行い、よい行いは善い行いそのものの中に報いがあり」
「悪い行いは悪い行いそのものの中に報いがある」
「天国には安らぎが」
「地獄には冒険があります!」

というセリフがあった。

ふうん。

地獄か天国かはおいといても
全てが
息を吐いてすうように

行えば報いが返ってくる。

なんだか

それは
当然の摂理なのかもしれないけれど

今日は
それが
改めて

あぁ、

そうなんだな

「全て」

なんだな

全てが
そうしてかえってくる。

よせては返す波のように

私は
私の行いの報いを受け取りながら生きているんだ

改めて
届いてきた。

2016.01.05

1月に思う。 

                              ⇒2016年星座運勢はこちら
一月だなぁ。
明けましておめでとうと思うところ。
まずは・・・。

しかし、
だんだんに年を重ねていくと
この大晦日から新年の
「新鮮さ」というか「神聖さ」といおうか
そういう感覚が薄れてしまっていることに気が付く。

しかし
思うに

「薄れた」と思う所

どこか、
そういう実感は
外からやってくるように
思っているふしがあって
そうして

「薄れた」
という響きに

薄れてしまった
薄れるという事態に遭遇してしまった

そんな感覚を抱いている自分を感じる。

うーん。

そもそも

遭遇する、
外から頂く
そういう時代
または年齢域では
なくなりつつあるのではないかと
ふと思った。

全てがやってくる時期から
主体的に「成る」時期へ

「あけましておめでとう」という言葉を
私のこころの奥で唱える。

おめでとう。

新年を祝うのは私なのだ

私の中から

私から

始まるのだ。

・・・

そんな事を思った
正月。

「1」という数字に

その心細さと
でも
一人で立つ
新鮮な意思を思う。

フッと息を吹きかけたら消えてしまうかもしれない
支えて欲しいかもしれない

それでも
スクッと立つ
その意志は

なんとも小気味よい。

小さな命に
大きな可能性が宿るかのごとく

小さいけど新緑のみずみずしさのごとく

そんな新しい
気持を
大事に育てて
進んでいきたい。

そんな事を
「1」に思う。

しかし、
実はサインで考えると
元旦は山羊座の10番でもあるのだ。

「10」
10というと
なんだか
心細さは消え去り
場や環境を得た新たなスタートと言える。

まだ芽が出たばかり
どうなるか分からない私ではなく

もう
それなりの
結果や立場、背景を掲げた
社会的なスタートの数字なのだ。

その2重の意味合いを含んだ

この元旦の日。

たしかに

新しい歳の始まりではあるけれど
どこか
今年度のしめくくりに入る時期であろう

確定申告
会計の閉めとかも?
受験
卒業
就職

そうした節目へ向かって
年度の最後の節が始まる。

とにもかくにも

あけましておめでとう。

2015.12.31
2015.12.22