「自分の変わりはいくらでもいる」という言葉を
時々耳にする
確かに
そりゃそうだろう
と思う。
私が一人いなくなったって
世界はまわるのであるから
私じゃないとできないもの
私以外にいないものといえば
思いつくのは
誰かの娘であること
或いは誰かの親であること
それは
わたしじゃないとダメなものと
言えるのかもしれない
でも
世の中には
親が既にいない人もいるし
子供がいない人もいる
私が
私だけが
私じゃないとダメだということを
恋人に求めたとして
やっぱり
私が死んだら
この人は別の誰かと
また改めて恋愛をして
いくのかもしれないなんて思ったりして
どこにも
私じゃないと
ダメな
誰かやその役割は見つかりそうにない
そう
そもそも
外に
自分であることの証明を求めても
私である必要は
見つかりそうにない
ならば
外に向けたベクトルを内側に向け返してみよう
今までが
たとえ善意だったとして
誰かのために
善良に生きてきたとして
それはとっても素晴らしいことだけれど
ホントは
疲れてしまった自分がいたなら
私が
私に必要な道を選んでもいいのだ。
どんなに頑張って
誰かが
あなたの必要性を証明はしてくれないけれど
私は
私にとってこの道がいい
と今思える道
それが永続的なものであるかは
考えても今はわからないけれど
とにかく
今私は
これがしたいんだ
とにかく
私には今これが必要だ
そんな風に自分で自分の道を証明できればいいのかもしれない。
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しかしね、
意外に
外に自分の価値を求めてやまない人は
自分が何を求めているのか
何を必要としているのか
自分に必要不可欠なものはわからなかったり
どうしてもこれでないと・・・と思えるものはなかったりする。
そもそも
なーんにもなくても
基本的には私は私でいいんだと
あなたはあなたでいいんだと
なんの根拠も証明もないけれど
その漠然とした自分への愛が見つかればいいんだと思うのだ。
必要なのはそういうものだったりする。
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今週も読んで頂いてありがとうございます。
いい一週間を。